〖トピック1〗〜女子総合優勝〜
〖トピック2〗〜個人種目 初優勝(大会別)~
〖トピック3〗〜最多優勝種目数(大会別)~
〖トピック4〗~インターハイのリレーで3回入賞!~
〖トピック5〗〜短距離とリレー〜
〖トピック6〗〜跳躍種目と七種競技〜
〖トピック7〗〜投てき種目〜
〖トピック8〗〜中長距離と駅伝〜
〖トピック9〗〜異色の選手&エトセトラ〜
初めての女子総合優勝は、2年目の昭和62年(1987)秋の県南高校新人大会でした。この年の夏休みに当時千葉県野田市立第二中学校陸上部顧問の野島先生から指導法を教えていただきました。その中の一つに「一番小さい大会でいいから総合優勝をすること」でした。そこで目標にしたのが県南高校新人大会でした。選手11名+マネージャー2名の13名での挑戦でした。私は大会当日校外学習で引率できませんでしたが、総部2年目で県南高校新人を総合得点58点(6点法)で総合優勝してしまいました。大会への施策は一人3種目出場。派手な種目優勝より1点でいいから複数入賞でした。ちなみにこの大会では種目優勝は槍投だけでした。そしてもう一つ、実は大会直前に私が引率できないので部員たちのモチベーションをあげるためにある約束をしていました。それは「女子総合優勝したらディズニーランドに連れていく。費用は俺が持つ。」という約束でした。その約束は実行しました。でも部員のやさしさで費用については、入場料だけになりました(笑笑)。
創部1年目の部員
2年目の部員;県南新人 女子総合優勝
3年目の部員
1987(S62)年9月 県南高校新人大会 女子総合優勝
部員全員で東京ディズニーランドへ
その後も野島先生からご指導をいただきました。そして野島先生からは埼玉栄高校の大森先生のところに行って勉強してくるといいと言われ、5年目の1月上旬に私一人で2泊3日の勉強に行きました。大森先生は丁寧にいろいろなことを教えてくださいました。そして、県大会の総合優勝は、6年目の平成3年秋(1991)の県高校新人大会でした。この時は部員も増えていましたが、一人一役で全員が役割をもって大会に臨みました。大会最終種目の4×400mR 直前でこの種目5位以上で総合優勝という得点でした。予選タイムは3位。しかし、まだこの大会で優勝種目がありません。私はあえてレース直前に部員全員とリレーメンバーに今の状況の話をして、「最終種目優勝で総合初優勝に花を添えよう」と盛り上げました。リレーの作戦は「300mタイムトライアルのように全力で走って、あとは根性でもってこい。」そしてアンカーだけにはいろいろなパターンの策を話しました。しかし、この頃の大会はまだ6点法だったので、この策が裏目に出たらと心配でした。レースは1走から4走まで全員が300mまで全力で走りラスト100mはフラフラでしたが、1度もトップを譲らずの優勝でした。そして総合得点は2位と5点差の49点で総合初優勝(6点法)でした。
【茨城県高校新人大会
女子総合 初優勝;1991年9月】
そして、5月の県高校総体は8年目の平成5年(1993)に83点(8点法)で初優勝することができました。この時は4×100mRを含む4種目で優勝です。
【茨城県高校総体 女子総合 初優勝;1993年5月】
その後、関東高校(北関東)は平成10年(1998)に埼玉栄高校の十数年続いていた連覇を止めて、17点差の57点を取り初優勝することができました。
【総合優勝回数(38年間)】(令和2年度〜女子実施種目数;20種目)
〇県南高校総体(春);優勝回数18回、最高得点209点(2004・2005年;17種目実施)
〇県南高校新人(秋);優勝回数19回、最高得点207点(1997年;13種目実施)
〇茨城県高校総体(春);優勝回数13回(連続優勝11回)、最高得点132.5点(1998年;12種目実施)
〇茨城県高校新人(秋);優勝回数10回、最高得点147点(1999年;16種目実施)
〇関東高校(北関東;6月);優勝回数1回、最高得点57点(1998年;12種目実施)
〖トピック2〗〜個人種目 初優勝(大会別)~
県大会レベルでの初優勝は、創部3年目の1988(S63)年の秋の茨城県高校新人の円盤投での青柳和子(高2)さんでした。この選手は、中学時代は吹奏楽部でしたが、高校では「ダイエットをしたい」ということで入部してきました。好きな種目をやらせていましたが、1年の夏休みに9月の県南高校新人で女子総合優勝に向けて全員入賞を目指して円盤投げをやることになりなったと思います。2年生になる頃から、めきめきと力をつけて2年の県高校新人で円盤投に優勝しました。しかし、私は審判をしていてこの感動的な瞬間を見ていません。今思うと残念でなりません。
👈【写真;青柳 和子(練習風景)】
関東高校(北関東)での初優勝は、5年目の1990(H2)年の100mで渡辺和子(高3)さんでした。中学時代から関東中学・全日中に出場するものの入賞はしていない選手でした。入学時には腹筋はなかなか起き上がれない。懸垂をやれば、ぶら下がりっぱなしと筋トレを行うとチームで一番力がありませんでした。それでも筋力も徐々に付き、2年生では県選手権100mで優勝。しかし、本人はスタートに自信がないというので、当時茨城県強化部長であった後藤一彦先生に相談したところ、「レースのスタートで1m後ろから位置に手を着かせてビリからスタートし、加速し抜き去る練習をさせてみなさい。」と言われました。悩んだあげく春先の大会で2回行いました。1回目は順大記録会で1m後ろ、2回目は県大会予選で50㎝後ろに手を着かせました。2回ともスターターが「立って」と声かかけられていました。本人は恥ずかしそうにしていました。レース後はいつも怒っていました。私も見たことがない光景でしたがこれが良かったと思っています(笑笑)。3年の県高校総体では、4種目優勝を狙いました。大会2日前から前日まで風邪をひき欠席していましたが本人は大会には参加するというので、保護者に許可を得て大会に臨みました。結果は400mだけが4位で100m・200m・4×100mR(4走)の3種目に優勝しました。また、この優勝は本校にとって県高校総体での初優勝でもありました。
関東高校は、3種目に絞り100mで優勝し200mと4×100mRで8位に入賞を果たしました。この優勝は、100mでは珍しく着差なしの優勝者が2人でした。発表に時間がかかりました。もう一人の優勝者は、埼玉栄高校の熊田恭子(インターハイ200mで3連覇)選手です。優勝カップがあったのですが、当時埼玉栄の監督だった大森監督が、「明日の200mで優勝カップをもらう予定だからこのカップは持って帰ってください。」と譲ってくださいました。うれしかったのですが少し複雑でした。関東の翌週の日本ジュニア選手権では100mで7位に入賞しました。しかしインターハイは体調を崩し、力は発揮できませんでした。
全国大会の初優勝は、1997(H9)年の国民体育大会の少年B200mでの糸賀千恵(高1)さんです。この選手は、中学3年次全日本中学校選手権大会200m優勝の経験の持ち主で、国体での優勝は私にとっては「ほっとした。」が本音でした。大変すばらしい選手でした。しかし高校1年次は、入学後すぐにシンスプリントになってしまい、ほぼ1年間テーピングをしての練習や大会に参加しました。その後、高校2年次に国体の少年A100mで5位に入賞しました。
👈【写真;糸賀 千恵;国体優勝】
≪初優勝(大会別)≫※総部1986年
〇県南高校総体;1987(S62)年;100mH;伊藤美奈(高2)、槍投;松村 操(高2)
〇県南高校新人;1987(S62)年;槍投;松村 操(高2)
〇県高校総体;1990(H2)年;100m・200m;渡辺和子(高3)、
4×100mR;舟生早苗(高3)・竹林優子(高2)・横川昌代(高3)・渡辺和子(高3)
〇県高校新人;1988(S63)年;円盤投;青柳和子(高2)
〇茨城県選手権;1989(H1)年;100m;渡辺和子(高2)、七種競技;児玉綾子(高3)
〇関東高校;1990(H2)年;100m;渡辺和子(高3)
〇全国大会(国体);1997(H9)年;少年B200m;糸賀千恵(高1)
〖トピック3〗〜最多優勝種目数(大会別)~
〇県南高校総体;1998(H10)年;11種目/12種目中(200m以外すべて優勝)
2004(H16)年;11種目/17種目中
〇県南高校新人;1998(H10)年;12種目/14種目中
〇茨城県高校総体;1998(H10)年;11種目/12種目中(走高跳以外の優勝)
〇茨城県高校新人;1997(H9)年;10種目/13種目中
〇茨城県選手権;1998(H10)年;5種目(1500m・4×100mR・4×400mR・走幅跳・砲丸投
〇関東高校;1998(H10)年;2種目/12種目中(800mと走幅跳)
【優勝種目数(大会別)】
チームが県大会で総合優勝をするようになると今度は種目優勝を増やすことに興味がでてきました。優勝種目数については、1つの大会で1種目以外すべて優勝というのが2大会ありました。
1998(H10)年の同じ年の県南高校総体と茨城県高校総体です。1994(H6)年から2000(H12)年9月まで長距離を杉森春男先生が担当し、私はその他種目を担当する体制で部の指導に当たりました。優勝種目数が増えていく中、1998年の前年度の県高校新人では13種目中10種目の優勝(県高校新人 最多優勝数)をしていましたので、冬季練習は「総合優勝はもちろんのこと、全種目制覇の完全優勝だ!」とチーム一丸となって練習に臨みました。そして、1998年のシーズンが始まり県南高校総体では200m以外の11種目で優勝しました。そして県高校総体こそと思いながらも簡単ではないことはわかっていました。特に初日が鬼門でした。県新人で優勝していないのは、初日の400m・走高跳・100mHの3種目だったのです。決勝1種目は、走高跳で本校は県高校新人で3位の選手です。私は棒高跳の審判をしながら見守りました。結果は3位と優勝を逃してしまいました。やっぱり甘くないなと思いながら400mの決勝が始まりました。県高校新人では6位だった根本圭子(高2)が優勝。そして100mH
は走幅跳専門の渡辺和江が優勝と続きました。1種目の走高跳で完全優勝がなくなったことでチームがリラックスしたのか、残り全ての11種目で優勝しました。ひとつの大会で全種目優勝というチームは、存在するのかなと思いました。しかし、12種目中11種目優勝の教え子達には感動しました。帰りの車は総合優勝杯1個・種目優勝カップ11個の計12個の箱と優勝旗と車の中は大変な荷物で載せるのは大変で嬉しい悲鳴でした。
その後、6月の関東高校大会もその勢いで初優勝をすることができました。優勝種目数とは違うのですが、実はこの年の関東高校大会は、狙っていました。チームの力もついていましたが、年明けに埼玉栄高校の大森監督が実業団の指導者になるのではないかと噂を耳にしていたのです。3月下旬にはそれがわかり、目の色を変えて指導したことを覚えています。
〖トピック4〗〜インターハイのリレーで3回入賞!〜
今回は長くなります。最後までお付き合いください。
私は、中学校から大学まで棒高跳を中心に競技を行ってきましたがスプリンターへの憧れがありました。教員になってからは、強い選手を作りたい一心で1年間は独学で指導しましたが、上手くいかず部員も初年度初めは20人くらい集まりましたが生徒のやる気を感じられず、『本気でやりたい者だけ残れ』と言ったら、選手6人・マネージャー1人の7人残りました。選手は、投てき2人、中長距離2人、ハードルをやりたいが1人、元吹奏楽部1人が選手です。
私は、強い選手を作るには足が速くならなくてはならないと思っていたので、初年度から最重要強化種目としてリレーをあげて指導がはじまりました。4×100mRは、1年目秋の県南新人大会で6位になり県高校新人大会に出場できました。しかし、なかなか思うような指導結果が出なかったので、当時、野田市立第二中学校の顧問の野島先生に指導の方法を教えてもらいに行きました。実は野島先生とは以前から面識があり私が教員になった事を大変喜んでくれた先生でした。1年目の夏休みに選手勧誘で野田ニ中に訪問して『100m県チャンピオンの選手はどこに進学するのですか?』と聞くと顔色が変わり、『この選手を勧誘に来たのか?指導実績もない、特待制度もたいしてない、よくわからない学校に送れというのか?』と言われて、私は「そこまではっきりと言わなくてもいいじゃないか」と頭がカッとしてしまい、その日はすぐに帰りました。そのあと近隣の中学校を勧誘に回りましたが、ほとんど相手にされませんでした。ある中学校では事前に約束して尋ねましたが『学年主任は忙しいので資料はそこに置いていってください』と言われる有様でした。これが現実でした。そして1年後(1987年)に野島先生を尋ねると大変優しく『今日は何しにきたんだ?』と聞かれ、『選手の指導法、育成法を教えてもらいたくて来ました。』と言うと『よく来たな。もう来ないかと思ったよ。』と笑いながら言い、事細かに教えてくださいました。特に短距離走やチーム作りについて教えてもらいました。この後、10年以上自宅にまで押しかけて伝授してもらいました。本当に感謝しております。(左の写真は練習風景1991年)
指導結果はすぐに出て、2年目(1987年)県高校新人4×100mRで6位、5年目(1990年)県高校総体4×100mRに初優勝、その年の関東高校4×100mRで8位、そして8年目(1993年)にインターハイ初出場。その後インはーハイには、4×100mRは8回・4×400mRは1回出場し、4×100mRで2回・4×400mR で1回の計3回入賞しました。
ちなみに1986年(S61)から2020年(R2)までに茨城県の女子チームがインターハイで入賞しているのは4回あります。1回は常磐女子(現在;常磐大学高校)高校が1991年(H3)に4×100mR で47秒59の県高校新記録で第5位入賞、そして本校が1994年(H6)に4×100mR で本校初の第7位、1997年(H9)に4×100mR で第6位、2001年(H13)に4×400mR で第4位と2校で4回です。
本校のインターハイ入賞の1回目は、リレー出場でインターハイ2回目の富山インターハイでした。県大会優勝、関東高校を3位で通過し本番のインターハイを迎えました。県・関東と1走を丸茂(高2;槍投専門;この年、国体出場)が走りましたが、6月下旬から1年の高野千尋が調子を上げてきていたので、私はインターハイに使いたいと考えていました。2走から4走は3年ですが、大会10日くらい前から3人に相談しましたが、3人とも答えは『NO』でした。しかし、どうしても使いたかったのでインターハイ会場に到着する日の午後に決定戦を行うことにしました。丸茂と高野の2人を200mのスタートから100mスタートラインまでの100mで決定戦を行いました。私とレギュラー3人で100mスタートライン(ゴール)の外側で見守りました。決定戦は高野が2mほど離してゴール。私は3人を見ると「高野で行きましょう。」とメンバーが決まりました。しかし、このメンバーで一度もレースを走っていません。2走の金子は200mにエントリーしていたので、何本も練習はできないので本数は少なくし集中して行いました。予選は無事通過し、準決勝はプラスか着取りかは覚えていませんが決勝にはギリギリ残ったと記憶しています。準決勝のタイムは最高タイムを0秒31短縮して、47秒78で走り聖徳新でした。決勝は、私も選手も緊張していましたが、1走の高野は楽しそうに見えました。その高野がスタートでフライングをしました。高野はその時自分がフライングしことに気づいていなかったらしく審判に注意を受けあて、自分のことを指さして「私ですか?」と言わんばかりの様子でした。もう終わったなと思いました。しかし、ジャストにスタートしていきました。途中1チームがバトンミスをしましたが僅差のビリのゴールと見えましたが、バトンミスのチームはバトンが渡らず失格となり7位でした。ホッとしながらも4×100mRの怖さを知りました。(写真左は3~4走者。下はリレーメンバー)
2回目の入賞は、それから3年後の1997年でした。この年は県大会で100m4位・6位、200m3位・4位・5位、400m優勝でし、5人で6種目関東大会でした。県大会のリレーは、1人だけが正メンバーで3人は補欠で走り49秒99で優勝。みんなに活躍の場を作りました。関東大会からは2走から4走は正メンバーに固定し、1走は調子の良い者を使うと考えてインターハイの調整していきました。関東大会は予選では47秒99で走り、決勝は4位で通過。インターハイは、予選で夕立にあってしまい、マーク用にテープが飛んでしまいアクシデントになり、本校の組で中断になってしまいました。しかし、本校は雨対策をしていたので、テープは飛びませんでした。以前、全国のトップチームがホチキスの持っていてテープを止めていたのを見てからは、選手に必ず持参させては使用していたので本校の生徒は焦らずスタートを待っていました。結果、本校のホチキスを使ってレースが再開されました。ですから予選は全体の3番で通過しました。しかし、準決勝・決勝は晴天でしたので順当の6位に入賞しました。
3回目は、4×400mRで2001年(H13)に4位に入賞しました。この年から女子種目に4×400mRを含む5種目が追加されました。この5種目は、勝てば初代チャンピオンになる年です。実は狙っていました。前年度の日本ジュニアで5位。3年が1人で3人が2年です。3人のうち1人は関東高校100m2位の植村愛、もう1人は関東高校400m6位の小山真理、3人目は100m〜400mをこなす吉宮梨恵でした。その年(2000)の9月末日に長距離担当の杉森春男先生が退職し実業団へ行ってしまい、長距離と一緒に指導しました。10月から大橋忠和先生を迎えて冬季練習に励みました。
2001年シーズンは、5月上旬の水戸国際陸上4×100mRでジャパンBチームをアンカーの植村が抜き去り2位でゴール。タイムも47秒38の県新記録。そして5月中旬の県高校総体では100m;1位・4位、200m;1位・3位・5位、400m;1位・2位・6位と5人で8種目に入賞、リレー2種目も優勝。その後、県リレー選手権では4×200
mRとスウェーデンリレー(100m+200m+300m+400m)で日本高校新・県新記録を樹立と思い描いた様な仕上がりでした。ところが6月上旬にエースの植村が練習中に痛みを訴え、疲労骨折が判明し関東高校を欠場。関東は200mで小山が8位、400mで小山が3位・吉宮が6位、4×400mはエースの植村が欠場しながらも3分52秒26の県新記録で2位に入賞しました。インターハイは、さらに1走を走った石川裕子(1年)が故障で欠場となり、チーム6番手で400mベストが62秒44の鶴田由樹美(1年)が走るしかなくなりました。会場は熊本県で大変熱く私は生まれて初めて熱中症にかかってしまうほど厳しい環境でした。私は、開会式直後に体調がおかしくなり、激しい頭痛・悪寒・吐き気に襲われました。選手は大橋先生に任せて体調を整えました。大会には学校から湯澤先生(現校長)が応援に来てくださいました。大会初日は、400mに小山が出場し調子が良く予選で56秒33の自己新で走りました。しかし準決勝ではうまく走れず決勝には進めず、チームの雰囲気はよくありませんでした。また宿舎から大会会場までは車で1時間以上の場所でした。選手は走りのリズムは良いのですが、モチベーションが上がらない様子のままリレーの前日練習を終えました。一か八かで前日ミーティングは生徒たちが『勝ちたい』と思うまで続けました。2~3時間は行ったと思います。予選と準決勝は、オーダーは大橋先生と相談した結果、大橋先生案の走順です。1走;鶴田(62”44;7月)、2走;吉宮(57“47)、3走;豊野(58“86;9月)、4走;小山(56”33)です。予選は、1走で誰が見てのビリでした。2走の吉宮は前半から激走して集団に追いつきラップも55秒の前半で走り、3走の豊野は2、3番手でアンカーの小山へ繋ぎ、小山がトップでゴールしました。タイムは3分50秒98の県新記録。準決勝は次の日でオーダーも同じ走順では臨みました。1走は予選以上に離れてのビリで2走の吉宮へ、予選と同じように前半から激走して集団に追いつき3走の豊野に渡し、豊野は、2、3番に上がりアンカー小山がトップでゴールしました。決勝は、準決勝の3時間後ぐらいでした。4人は疲れ切っていましたが、この時点で私は走順を変更することを決断しました。ここからが本番だと思いました。1走と3走の変更です。しかし、そのことを告げると3走の豊野がビックリしていて顔を伏せてフリーズしてしまいました。決勝前までによく話をしてレースに臨ませました。レース直前に付き添いに回った植村と他2人はバックスタンドの最上段からスタジアムに響くほどの大きな声で応援をしてくれました。レースは、1走の豊野はいい走りをして3~4番目で2走の吉宮にバトンを繋ぎ、吉宮は2位まで上がりました。いよいよ3走の鶴田です。3位以下のチームは聖徳がこの位置にいるというのが予想外だったのか100mを過ぎても2位で誰も抜こうとしません。200mを走ったあたりでやっと気づいたのか抜き始めました。しかし、このレースの鶴田は違いました。ラップも1走の時は62秒くらいでしたが59秒で走り、そのまま集団に着いて行き4位で4走の小山へ。小山は200m付近で3位に上がりラスト100m付近で外側から今大会100m・200m優勝の藤巻選手(新栄高校)に追い抜かれ4位になり、そのままゴールしました。私は大橋先生と共にゴール付近に走りました。その時、頭の中で麻倉未稀の「ヒーロー」が流れていました(笑笑)。タイムも3分49秒23の県新記録でした。インターハイ中に2回の県新記録樹立です。エースの植村と関東大会1走の石川が離脱してのインターハイでしたが、4位という素晴らしい結果を出し、頑張ってくれました。走った4人はもちろん補欠・付き添いに回った者たちのチームワークの成果だと思います。その時のゴール後に喜んで涙している写真が教科書会社のワンカットに乗りました。でも、発刊後に連絡は来ました(笑笑)。
最後までご覧いただきありがとうございました。
【写真左;4×200mRとスウェーデンリレー;日本高校最高記録樹立2001年】 【写真右;熊本インターハイ参加者】
【下の写真は 左から第1走者;豊野由希子、第2走🅂タ吉宮梨恵、第3走者;鶴田由樹美、第4走者;小山真理】
【教科書に写真採用2002年】
〖トピック5〗〜短距離とリレー〜
トピック4で述べたようにリレーを強化していく中で短距離種目の強化は不可欠です。短距離の最初の県大会入賞者は、創部2年目の県高校新人大会の100mで5位入賞が県大会レベルで初入賞でした。この選手は中学時代に吹奏楽部に所属していましたがバネのある走りをする選手でした。そして、このスピードを生かして同大会の走幅跳で3位に入賞しました。これもまた初の表彰台でした。次に創部4年目の県選手権で渡辺和子(高2)が学校としても初優勝しました。その後、県高校総体・県高校新人・県選手権の3つの県大会で個人優勝が100m;14回・200m;16回・400m;6回の計36回、リレー競技は4×100mR;20回、4×400mR;16回の計36回の優勝をしました。数々のドラマがありましたが、印象的だったのはリレーでの3大会です。トピック2でも書きましたが、1991年に本校としては初の女子総合優勝が懸かった最終種目の4×400mR での優勝。メンバーは、オール2年で細田真弓・井坂泰子・角田ルミ子・小室智美です。中学時代は、県大会下位入賞の選手が2人の実績でしたが、総合初優勝に向かって感動的な優勝でした。2つ目は、1994年富山インターハイ4×100mRでの第7位に初入賞。3つ目は2001年熊本インターハイ4×400mRで第4位入賞が感動的な大会でした。
種目別の8位以内入賞は、左記の表にもありますが、3つの県大会で各種目延べ数は、100m; 66種目・200m;77種目・400m;48種目、4×100mR;61種目(県選手権は2チーム入賞が4回)・4×400mR;45種目の入賞があります。県選手権の4×100mRでは、チームの完全なBチームが4回入賞しました。創部7年目(H4年)に2チームが優勝と4位に入賞した時には「すごい」と声が聞こえましたが、3回目に2位と3位、4回目は優勝と3位と入賞すると「2チームが出場しているのは、おかしい」という声が聞こえてきて、翌年から1チームしか出場できなくなりました(笑笑)
≪県高校総体 優勝者≫
〈100m〉6人
①渡辺和子(1990)、②金子友美(1994)、③高野千尋(1996)、④糸賀千恵(1998)、⑤植村 愛(2000)、➅植村 愛(2001)
〈200m〉7人
①渡辺和子(1990)、②船津美佐(1993)、③金子友美(1994)、④高野千尋(1996)、⑤糸賀千恵(1998)、➅植村 愛(2001)、⑦山下彩花(2005)
〈400m〉3人
①船津美佐(1993)、②根本圭子(1998)、③小山真理(2001)
≪県高校新人 優勝者≫〈4×100mR〉9回
①舟生早苗、竹林優子、横川晶世、渡辺和子(1990)、
②臼井智子、金子友美、船津美佐、小泉克乃(1993)
③丸茂明見、金子友美、小林純子、寺門由紀(1994)、
④山﨑悠紀、高野千尋、野口聖子、川又智子(1996)
⑤長沼美沙、山﨑悠紀、野口聖子、渡邊和江(1997)、
➅山﨑悠紀、吉宮照子、渡邊和江、糸賀千恵(1998)
⑦植村愛、吉宮照子、小川美幸、浅野輸輝子(1999)、
⑧植村愛、小山真理、吉宮梨恵、吉宮照子(2000)
⑨豊野由希江、小山真理、吉宮梨恵、植村愛(2001)
〈4×400mR〉1回
①豊野由希江、小山真理、石川裕子、吉宮梨恵(2001)
≪県高校新人≫
〈100m〉7人
①渡辺和子(1989)、②高野千尋(1995) 、③糸賀千恵(1997) 、④糸賀千恵(1998)、⑤植村 愛(2000)、➅森川 葵(2008)、⑦森川 葵(2009)
〈200m〉8人
①渡辺和子(1989)、②船津美佐(1992)、③高野千尋(1995)、④糸賀千恵(1997)、⑤糸賀千恵(1998)、➅植村 愛(1999)、⑦植村 愛(2000)、⑧森川 葵(2008)
〈400m〉2人
①根本圭子(1998)、 ②小山真理(2000)
〈4×100mR〉5回
①小林純子、寺門由紀、臼井智子、金子友美(1993)、
②長沼美沙、野口聖子、飯尾美香、渡邊和江(1996)
③飯山圭子、瀬谷あずさ、渡邊和江、糸賀千恵(1997)、
④豊島由美子、吉宮照子、根本圭子、糸賀千恵(1998)、
⑤村木奈々、渡耒由理、鶴田由樹美、豊野由希江(2001)
〈4×400mR〉9回
①細田真弓、井坂蓁子、角田ルミ子、小室智美(1991)、
②斎藤裕子、金子友美、石塚文子、船津美佐(1992)
③野口聖子、川嶋妙子、鈴木深雪、高野千尋(1995)、
④石岡なみ子、飯尾美香、山﨑悠紀、野口聖子(1996)
⑤木村美智、根本圭子、渡邊和江、糸賀千恵(1997)、
➅糸賀千恵、浅野輸輝子、豊島由美子、根本圭子(1998)、
⑦小山真理、中島里美、柳橋智美、小川美幸(1999)、
⑧吉宮梨恵、柳橋智美、植村愛、小山真理(2000)、
⑨小松崎美希、永野雪菜、堀越瑛子、山下彩花(2003)
≪県選手権 優勝者≫
〈100m〉1人 ①渡辺和子(1989)、〈200m〉1人 ①金子友美(1994)
〈400m〉1人 ①小山真理(2001)
〈4×100mR〉6回
①寺門由紀、井坂蓁子、船津美佐、小室智美(1992)、
②丸茂明見、金子友美、小林純子、寺門由紀(1994)
③高野千尋、野口聖子、臼井智子、川又智子(1995)、
④瀬谷あずさ、吉宮照子、渡邊和江、山﨑悠紀(1998)
⑤吉宮梨恵、浅野輸輝子、根本圭子、植村愛(1999)、
➅鶴田由樹美、小山真理、吉宮梨恵、豊野由希江(2001)
〈4×400mR〉6回
①佐久間久美、鈴木深雪、高野千尋、川又智子(1996)、
②豊島由美子、浅野輸輝子、根本圭子、渡邊和江(1998)
③中島里美、松信美早子、小山真理、根本圭子(1999)
④松信美早子、小川美幸、吉宮梨恵、小山真理(2000)
⑤鶴田由樹美、石川裕子、渡耒由理、小山真理(2001)
➅大隅良美、山口真美、林亜友未、北爪史甫(2008)
〖トピック6〗〜跳躍種目と七種競技〜
跳躍種目の茨城県での初入賞者は、創部2年目の茨城県選手権大会の走高跳で第6位に入賞した児玉綾子(りょうこ)さんでした。この選手は、中学校時代に走高跳を行っていたと言うのですが、自分がいくつを跳んでいたかもわからないレベルの選手でした。入学後すぐに走高跳の背面跳びを指導したところメキメキと力をつけて県選手権に出場。大会当日私は、審判をしていたので走高跳が終わって結果報告があり、第6位に入賞したことがわかり、大変喜んだことを覚えています。本校にとって初めての関東大会への出場の切符獲得でした。その後この選手は、走幅跳や槍投で力をつけ、高校2年の時に七種競技で全国高校選抜大会に出場し、第8位入賞。そして高校3年次は、全国高校総体の走幅跳で決勝進出(10位)。全国高校選抜大会の七種競技で第3位という素晴らしい成績を残しました。七種競技は、いまだ破られていない県高校記録となっています。全国高校選抜大会で第3位に入賞しましたが、実は全国ランキングトップで大会に臨みました。しかし本人は大会直前に陸上競技マガジンを見て、自分が全国ランキングトップと言う事がわかってから大会まで眠れなかったそうです。私は、この大会に現地入りして、前日に埼玉栄高校の大森先生に名刺を持って挨拶に行きました。すると「全国ランキングトップの高校の先生がわざわざすいません。あれ、先生は中学時代、埼玉県三郷市で棒高跳をやっていた小川君だよね。』と言われ、この人は、どこまで知っているんだろうと思い、「勝てないかも?」と思ったことを覚えています。結果は、その通りになりました。本人も緊張してうまく記録を伸ばせませんでした。それに対して、埼玉栄の選手は順調に得点を伸ばし結果的に1位・2位独占で本校の児玉が3位という結果でした。大森先生とは監督としては、そこからの挨拶するようになり、大変親しくしていただきました。2021年(R3)までに跳躍と混成の全国大会の入賞は、延べ6種目あります。県大会(県高校・県新人・県選手権)での優勝は、走高跳が4回、棒高跳が4回、走幅跳は12回、三段跳が1回、七種競技が4回です。
入賞者数は、走高跳が68回、棒高跳が38回、走幅跳が82回、三段跳が35回、七種競技が21回です。
【左2枚は、跳躍種目 優勝・入賞数】 【右2枚は、ハードル・七種競技 優勝・入賞者数】
≪全国大会入賞≫
【全国高校選抜大会(インターハイ扱い)】
①七種競技 第3位 児玉 綾子(1989年)
②七種競技 第8位 児玉 綾子(1988年)
【全国高校総体(インターハイ)】
①走高跳 第8位 高木貴子(1995年)
【国民体育大会】
①少年B走幅跳 第4位 渡辺和江(1996年)
②少年A走幅跳 第5位 渡辺 和江(1998年)
③少年共通棒高跳 第8位 山内 裕香(2011年)
≪県大会 優勝者≫
【県高校総体 優勝者】
〈棒高跳〉1人(2017~実施) ①河合奈美(2017)
〈走幅跳〉4人 ①大上ゆう子(1991)、②渡辺和江(1997)、③渡辺和江(1998)、
④脇田さつき(2007)
〈七種競技〉3人(2001~実施)①渡部聖子(2007)、②山口真未(2008)、
③山口真未(2009)
【県高校新人 優勝者】
〈走高跳〉3人 ①高木貴子(1993)、②圓城寺幸子(1999)、③渡耒由里(2000)
〈棒高跳〉1人(2016~実施) ①河合奈美(2017)
〈走幅跳〉6人 ①下川 円(1993)、②渡辺和江(1996)、③渡辺和江(1997)、
④小川美幸(1999)、⑤村木奈々(2001)、⑥小松崎美希(2002)
【県選手権 優勝者】
〈走高跳〉1人 ①高木貴子(1995)
〈棒高跳〉2人 ①山内裕香(2010)、②山内裕香(2011)
〈走幅跳〉2人 ①渡辺和江(1997)、②渡辺和江(1998)
〈三段跳〉1人 ①鈴木深雪(1996)
〈七種競技〉1人 ①児玉綾子(1989)
【写真左;高木貴子の走高跳1995年; インターハイ;第8位】
【写真中央;渡辺和江の走幅跳1998年;国体少年A;第5位】
【写真右;山内裕香の棒高跳2011年;国体少年共通;第8位】
七種競技においては、1998~2015年の18年間で4,000点以上の選手を調査しました。すると10名で、2名の学校が本校と県立T.K(南)と県立M.T.S(水)の3校で、あとは1名が4校でした。本校が創部以来4,000点を超えた選手は4名います。茨城県高校記録(4,688点=15“6-1m58-9m38-25”8-5m45-35m32-2‘29“8)も創部4年目(1989年)に樹立し現在も破られていません。
棒高跳と三段跳びにおいては、県高校総体と県高校新人大会で実施されたのが最近なので県トップレベルの選手との比較ができませんが、県選手権の結果を見ていただければどのような活躍したかはわかりと思います。
茨城県高校記録で走高跳が1m77の河北貴子(土浦日大;インターハイ入賞)選手、走幅跳が5m89の高橋久恵(土浦日大;インターハイ2位)選手、七種競技が4,688点の児玉綾子(取手聖徳;全国高校3位)の3人は同級生です。走高跳と走幅跳のスパースターの陰にいたのが本校の児玉綾子でしたが七種競技で成果をあげました。
【七種競技 4,688点 県高校新記録樹立 1989(H元)年7月;現在も県高校記録】
〖トピック7〗〜投てき種目〜
総部の1年目に投てき選手2名が入部しました。2人とも千葉県出身で一人は砲丸投において関東大会出場している松村操選手でした。この選手は入部してすぐの県南大会では、この選手は9m32で3位、もう一人の選手は9m37で2位と予想順位が逆でした。そして高校初めての大会では、髪の毛を赤いリボンでポニーテールにして大会参加しました(笑)。それから、秋の県高校新人の円盤投で第5位(28m08)に入賞し、本校としての県レベル初入賞でした。その後、総部3年目の高3の県高校総体では、槍投で3位・砲丸投で4位・円盤投で5位と3種目で入賞し関東大会へ出場しました。その年の県高校新人では、円盤投で青柳和子が初優勝と続きました。
投てき種目については、2001年(H12)10月から駅伝(長距離)を中心に指導しなくてはならなくなり、2006年(H18)からは選手の勧誘及び指導は控えていきました。
1986年から2008年(23年間)の県大会3大会の入賞は、砲丸投;80回、円盤投;67回、槍投;55回、ハンマー投げ;3回でした。砲丸投の80回入賞は、種目別では最多入賞数だと思います。
≪全国大会入賞者≫
【全国高校総体】
円盤投 第8位 安達 文子(1999)、槍投 第8位 塚本 侑子(2006)
【国体】
円盤投 第8位 安達 文子(1999)
【日本ジュニア】
円盤投 第6位 森戸 麻美(2000)
≪関東高校(北関東) 優勝者≫
〈槍投〉 1人2回 塚本 侑子(2004・2006)
≪県大会優勝者≫
【県高校総体 優勝者】
〈砲丸投〉5人 ①今井千左子(1997)、②今井千左子(1998)、③森戸麻美(1999)、④森戸麻美(2000)、⑤郡司綾乃(2004)
〈円盤投〉2人 ①今井千左子(1998)、②森戸麻美(2000)
〈槍投〉 5人 ①長谷川令奈(1993)、②安蒜未花(1994)、③富田悠香(1995)、④橋本みく(1998)、⑤塚本侑子(2004)
【県高校新人 優勝者】
〈砲丸投〉5人 ①竹之内民子(1990)、②今井千左子(1996)、③今井千左子(1997)、④森戸麻美(1999)、⑤郡司綾乃(2003)
〈円盤投〉2人 ①青柳和子(1988)、②今井千左子(1997)
〈槍投〉 4人 ①長谷川令奈(1992)、②伊東美江(1996)、③橋本みく(1997)、④郡司綾乃(2003)
【県選手権 優勝者】
〈砲丸投〉4人 ①今井千左子(1997)、②今井千左子(1998)、③森戸麻美(1999)、④森戸麻美(2000)
≪印象に残っている選手≫
【湯原 聖子】(写真無し)
湯原さんは、中学時代軟式テニスを行っていましたが、高校ではハードルをやりたいと中学の先生に相談したら、それなら聖徳に行きなさいと言われ入学してきました。入学時はハードルを教えました。インターバルを3歩で行けましたがスプリント能力もあまりなく不器用でした。そこでテニスを行っていたことと体も大きかったことから円盤投を勧めました。その後、力はついたのですがなかなか技術が習得できませんでした。高校2年生になり県高校新人の円盤投で4位(34m88)、砲丸投で6位(9m94)に入賞しましたが、なかなかターンやグライドが上達できませんでした。冬季の練習はパワーアップとターン練習に力を入れました。3年の県高校総体は円盤投で2位(38m08)に順位を上げました。円盤投は、山崎祐司先生に私が指導法を教えてもらっていましたので相談しました。スタンディング投げでもターンでも記録が変わらなかったからです。山崎先生は、「ドイツの選手にスタンディング投げで世界で戦っている選手がいるよ。だから、ターンができなくても徹底的にスタンディング投げでもいいんじゃないか」というアドバイスでした。迷いながらも関東大会では、初めの3本はスタンディング投げ、決勝に残ったらターンと決めて臨みました。結果はスタンディング投げの記録が残って6位(38m40)入賞。インターハイ出場です。インターハイでは迷わずスタンディングで臨みました。練習会場では、スタンディング投げで40m付近に何本も投げ、注目されているのがわかりました。ターン練習はしても投げませんでした(笑笑)。インターハイの予選は、たった一人スタンディング投げです。目立ってました。40m36を投げ、予選通過です。笑いました。決勝は39m78で13位でしたがインターハイでスタンディング投げをして決勝を投げている選手は見たことがありません(笑笑)。大学では全日本インターカレッジで第3位と活躍しました。投げは、重心を低くしゆっくりとしたスピードでターンに入り、スピード加速し、力強い投げのターン投げに成長していました(笑)。
【安達 文子】
安達さんは、中学時代ハードルで県大会出場の選手でした。高校1年の7月の学年別大会では100mHで2位になり、聖徳に入学して良かったと言っていました。県高校新人では7位と始めて共通の大会で入賞したことを喜んでいました。冬季練習が始まり体力テストを行ったときに握力が40kを超えていたことに目が行き、細身ですが手足が長く身長が170㎝を超えていたので円盤投げを勧めました。すると「私はハードルがやりたくて入学しました。県大会でハードルが入賞しているのになぜですか?」と聞く耳を持ってくれません。しかし、何とか説得して週に1回だけ円盤投を練習させました。高校2年の県高校総体は、100mHが7位、円盤投が8位でした。そして県高校新人では、100mHが4位、円盤投が5位でした。県高校新人が終ってすぐに「相談があります」と来ました。「私は本当に円盤投に向いているんですか?」と聞くので「週1回の円盤投の練習で県新人5位は凄くないか?どう思う?」と言うと「わかりました。円盤投に集中します。ハードルはもう試合に出ません。」と言うのです。ハードルは県新人4位でしたのでもったいな思いましたが、本人の強い思いを感じたので、冬季練習は円盤投を中心に投てき種目に専念しました。安達の円盤投は、ターン投げです(笑)。高3になり県高校総体は2位(県新人5位からジャンプアップ)。関東高校は優勝。インターハイ8位という結果でした。インターハイでは予選トップの記録で通過したので部旗の心配をしました(笑)。国体は、大会前日に右手の人差し指と中指を車のドアに挟むというアクシデントが起き、病院でレントゲンを撮り骨には異常なしでしたが痛みがかなりあり、一日中アイシングをしていました。大会当日も痛みはありそうでしたが「試合は出ます」というので出場させました。一発決勝だったので、投げは一切行わないで本番勝負にしました。1本目は全く飛びませんでしたが3本目までには、ベスト8に進出し、第8位に入賞でした。強い子だなと思いました。その後のシーズン最後の記録会では100mH に出場し楽しそうに走っていました。また、あまり練習日誌を提出していない部員でしたが、シーズン終了後に私が配ったプリントや大会の反省等すべてをまとめていて分厚いノートを持ってきた部員でした。
【塚本 侑子】
塚本さんは、中学時代にジャベリックでジュニアオリンピックに入賞し、綺麗に投げる選手でした。本人が入学してきた時は、私が駅伝を中心に指導して2年目になっており、大橋忠和先生に短距離・跳躍・投てきを指導がお願いしていました。私が大橋先生に指導法を伝授し、大橋先生が選手に指導するという流れを作りました。塚本のデビューは、素晴らしく1年の県高校総体で優勝(40m96)。関東高校も優勝(45m25)というスタートでした。関東高校では1投目が勝負だと思っていました。その1本目、リズミカルな助走から素直な投げ方で投げた瞬間「いったー!」と私は立ち上がって叫びました。続いて大橋先生も立ち上がって万歳していました。それが優勝の1投でした。その後、県内の同級生にライバルが出現しましたが、3年の関東高校も優勝(47m28)し、インターハイでは第8位に入賞しました。大変素直できれいな投げをする選手でした。
創部以来投てきには力を入れて指導してきましたが、2000年(H12)を機に投てき種目はあきらめて、駅伝(長距離)にシフトしました。その後、大橋先生に指導をお願いしましたが2007年(H19)に転勤後からは結果を残せず、2009年(H21)からは3大会で県大会に入賞ありません。
〖トピック8〗〜中長距離と駅伝〜
このトピックが一番いろいろなことがあり長編になります。
本校が中長距離種目で初めて県レベルで入賞した者は、平成元年(1989)の県高校新人大会の800mで4位に入賞した百目木(どめき)厚子さんでした。この選手は中学時代にバスケットボールの選手でした。高校3年(平成3年)の県高校総体では、400m:3位・800m;2位・3000m;4位と3種目で入賞しました。中長距離でこの3種目は、あまりやりません(笑)。この百目木が高校3年の夏に恩師の(故)瀧田詔生先生から「百目木はどうするんだ?一度会わせてくれないか?」と言われました。その結果、進路は瀧田先生が監督の川鉄千葉に就職しました(笑)。この時に瀧田先生に言われたのは「長距離に手を出し始めたのか?県総合も勝ったこともなく、もっといろいろな種目を指導してから最後に長距離の指導をしろ。まだ早い」と言われました。そうなのかと思い長距離以外に種目にしばらくは力を注ぎました。ちなみに県レベルの総合優勝は、その年の10月の県新人大会でした(笑)。
【大会成績】
≪世界大会≫
〔世界クロスカントリー選手権大会〕
ジュニア6km(日本代表)17位 大崎千聖(2006.3.5福岡国際クロカン 3位)
≪全国大会 入賞者≫
〔日本ジュニア選手権〕
5000m 第7位 大崎千聖(2006)
≪関東高校(北関東) 入賞者≫1大会のみ
1位(1人)800m ①北島路子(1998)
2位(2人)800m ①北島路子(1997)、②3000m 高仲未来恵(1998)
3位(2人)3000m ①荒井笑子(1999)、②3000m大崎千聖(2004)
5位(2人)3000m ①赤塚恵美(1997)、②3000m成毛志麻(2006)
6位(2人)3000m ①酒井亜希子(1998)、②3000m 松川恭子(2000)
≪県大会 優勝者≫
〔中学 通信陸上〕
〈800m〉2回 ①加藤花梨(2015)、②加藤花梨(2016)
〈1500m〉2回 ①加藤花梨(2016)、②加藤花梨(2017)
〔中学 県民総体〕
〈800m〉1回 ①加藤花梨(2016)
〈1500m〉1回 ①加藤花梨(2017)
〔中学 県新人〕
〈800m〉1回 ①加藤花梨(2015)
〈1500m〉1回 ①加藤花梨(2016)
〔県高校総体〕
〈800m〉3人 ①北島路子(1997) ②北島路子(1998) ③高安わかな(2004)
〈1500m〉2人(2001~実施)①皆藤良美(2003) ②大崎千聖(2005)
〈3000m〉6人 ①高仲未来恵(1998) ②北島路子(1999) ③斎藤有里(2002) ④大崎千聖(2004) ⑤大崎千聖(2005) ⑥成毛志麻(2006)
〔県高校新人〕
〈800m〉1人 ①北島路子(1997)
〈1500m〉0人(1999~実施)
〈3000m〉4人 ①中山靖子(1997) ➁北島路子(1998) ③大崎千聖(2004)
④加藤花梨(2019)
〔県選手権〕
〈800m〉1人 ①加藤花梨(2015)
〈1500m〉1人 ①高仲未来恵(1998)
〈5000m〉2人 ①成毛志麻(2006) ②加藤花梨(2019)
【長距離(駅伝)指導者】
小川 健二(1986.4~1994.3,2000.10~現在)
杉森 春男(1984.4~2000.9)
平成6(1994)年度からは杉森春先生を迎え多数の優勝・入賞をしました。この杉森先生は、平成5年10月下旬ころ、私が中学生の勧誘で千葉県我孫子市の中学校を訪問してました。杉森先生の中学校に行くと先生は怒っている様子で応接室ではない部屋に案内されて、次のように切り出しました。「生徒の勧誘はわかったけど、俺の話はどうなったんだ。」と怒り口調で言うので、そういえば、前の年に勧誘で訪問した時に「高校で指導をしたいんだけど、聖徳で俺を取ってくれないかな?」と軽い感じで言われたことを思い出しました。私は冗談だと思っていたので、上司には話をしていませんでした。すぐに聖徳の校長と事務長に相談しました。学園長にも話は言ったようでした。その後、超特急で話が進み1月には準備が整い、採用試験を受けていただき本校に着任しました。優秀な指導者が急に退職するとなったので我孫子市の教育委員会は怒っていたと思います。
杉森先生が就任してからは飛ぶ鳥を落とす勢いでした。就任した平成6年の県高校新人では、800mで3位、3000mで2位と入賞が始まり、県高校駅伝も平成6年に3位、平成7年は2位、平成8年には初優勝し、平成11年度まで4連覇を成し遂げました。特に活躍した選手は、赤塚恵美(H7~H9)と高仲未来恵(H8~H10)さんです。赤塚は、H8年度の県駅伝初優勝(H8/H9全国高校駅伝出場)、H9年度はインターハイ3,000m出場と素晴らしい活躍をしました。赤塚は、高校3年の全国高校駅伝に現地入りした際に少し体調を崩してしまい1区は難しいというので、相談にのり杉森先生に話をして3区を走ることになりました。
そして高仲は、取手第一中学校でバスケットボールを行っていた選手でした。高校1年から3年連続全国駅伝出場し、高校3年次は関東高校3000mで2位に入賞し、関東高校総合初優勝にも貢献しました。また実業団に就職し日本代表で世界ハーフマラソン大会に2回出場するまでの活躍ぶりでした。また高仲とは1つ目の実業団から次の実業団に移籍の時に相談を受けたこともありました。
👈≪高仲 未来恵 選手≫
平成12年6月の関東大会が終わった次の日の早朝に杉森先生から電話が入り「今日休んでいいかな?授業を頼めるかな?」というので了解しました。杉森先生は次の日に何か話がありそうな感じでした。放課後の練習中に話がありました。内容は「実業団に行っていいかな?」というので、私は「いつかはくると思っていました。」というと「なんでそんな簡単に言うんだ。」「夏休みを終えたら実業団に行く。」のような内容を言うので私はカッとしてしまいました。年度を終えてからか、せめて今年の高校駅伝を終えてではないかと思ったからです。学校側もはじめは認めないと言いましたが、結果的には9月末で退職し実業団へ行ってしまいました。それからが大変でした。4連覇した監督が9月で突然の退職です。まずは監督探しです。「学校側は、保護者にばれないように監督を探せ」、私の母校の大学など公募をせず監督を探せということでした。さんざん探して悩んだ結果、私が引き継ぎ、短距離に新しい先生を迎えることにしました。その先生が大橋忠和先生でした。大橋先生には、3年間は私が指示をするのでコーチに徹してほしい。その後は短距離の監督にする約束をして再出発でした。部員の保護者と選手は大変でした。短距離の保護者と部員は、「私たちを見捨てるんですか。なぜ長距離を見るんですか」。長距離の保護者からは「長距離の指導ができるんですか?フェリチンを知っていますか?」。長距離部員は、荒れました。ピアスを開ける者も出るし、例年11月の修学旅行は高校2年生たちは、参加しないで駅伝大会に向けて練習していましたが、駅伝のレギュラーに入れない者は「修学旅行に行きます」言い出し、急遽参加できるようにして、駅伝メンバーも県駅伝大会当日と修学旅行の初日がかぶってしまったので、そのメンバーだけ県駅伝に参加し、県駅伝終了後の夜に寝台車で出発して翌日のお昼に長崎県有田町に着き、有田焼の絵付けに合流させて私は30分ほどお昼を食べてとんぼ返りをしたことを覚えています。ちなみに県高校駅伝は5連覇がかかっていましたが途中トップを走りましたが結果は2位でした。お通夜のような状態での修学旅行への合流でした。
県高校駅伝は、その年から3年連続2位でした。すべて一旦はトップに立ちましたが勝てませんでした。私は長距離の勉強するために誰を訪ねるべきかを考え、平成13年1月から3月までの3か月間(週3回)、大学の後輩で佐倉アスリートの深山コーチに連絡を取り、佐倉アスリートの朝練を見学に行かせてもらいました。当然、小出監督、シドニーオリンピックマラソン優勝の高橋選手もいました。その朝練で小出監督と同じワゴン車に乗せていただき、話を聞きながら朝練を見せていただき、大変気持ちが高揚し私が元気をいただきました。大変感謝しています。また、その年の3月下旬に新潟の駅伝大会に参加した時、当時、市立船橋高校の滝田輝行先生と出会い、その後大変親しくしていただきました。そして、その大会中に滝田先生から三井住友海上の鈴木監督も紹介していただき、三井の合宿にも参加させていただきました。その甲斐があって平成15年にやっと優勝ができました。しかし、優勝記録は今でも最低優勝記録の1時間15分52秒でした。前年度に優勝監督からは、「おめでとう。でも島根県や沖縄県とは競るなよ。」と言われました。大変屈辱的な言葉でした。それほど良くないタイムでした。しかし、関東駅伝1時間15分06秒、全国駅伝では1時間14分19秒で走り46位(記念大会なので58校中、都道府県別では38位)でした。後ろに12チームもいました(笑)。その後、県駅伝は3連覇し、全国高校駅伝ではH16年は1区が5位で襷を渡し、2区でも7位と健闘し最終的に24位。H17年は1区7位で襷を渡し、3区から5区を10位台で粘り最終的に13位でした。
ここでH15-17年度に3年連続高校駅伝に出場した時のエースの大崎千聖について説明します。大崎は中学時代、阿見町立竹来中学校の出身で中学時代は1500mで県南大会こそ優勝しましたが、県大会は入賞経験がない選手でした。本校に入学したときは、長い距離の練習はできましたが、筋トレはいつもビリ、動きづくりを行ってもうまくできない選手でした。しかし、努力は惜しまない選手でした。高校1年の裏磐梯での夏合同合宿でBチームの練習ができたらいいなと思っていましたが、Bチームで一人だけ設定タイムで走ったり、最終日の檜原湖一周(約30km)走が終わった時に「楽しかった」と言って終了する選手でした。その年(高1)の県高校新人大会の3000mで初めて県大会個人で入賞し4位。高校2年では、県高校総体3000m(大会新)で優勝、関東高校では3位、インターハイ9位、5000mは15分台の県高校新、全国高校駅伝1区5位と一気に全国クラスの選手に成長しました。高校3年次は、全国都道府県女子駅伝の2区で区間3位、10㎞ロードで32分50秒の日本高校最高記録樹立(現在も記録保持者)、世界クロスカントリー大会6㎞で17位と世界の大会に出場しました。県大会入賞していない選手が日本代表選手になったのです。この大﨑が高校2年の東日本女子駅伝で1区を走らせてもらった時のことですが笑いました。前日の練習の時の私の同級生の増田明美さんから「今年の茨城県はどう?聖徳は誰か走るの?」と声をかけられたので1区の大崎と7区を走る和田沙織の話をしました。レースが始まり、大崎は序盤からいい走りをして後半になっても先頭争いをしていました。何度もアナウンサーが「茨城の大崎は高校生ですが、いい走りをしてますね。」と話題を振るのですが、解説の増田は何もしゃべりません。俺の話を覚えていないんだなと思いながら見ていました。アナウンサーに3・4回振られてやっと話し始めました。「この選手は、私の同級生が指導していて中学時代はバスケットボールを行っていた選手です。」と和田の話をしたのです。「やってくれたな」と思いました。そのあと会った時に問い詰めると「ごめん。間違えちゃった。」と笑っていました。その後、大﨑は三井住友海上に就職し、活躍したのですが、よく声をかけてくれて可愛がってもらったようです。
そのあと10年経って、加藤花梨がH27(2015)年に中学に入学してきました。10年間長距離の指導法で試行錯誤していました。大崎は持久能力が優れていたので、走り込みが中心の練習でしたが、加藤は中1だったので、動きづくり(スピード)と体力づくりに重点を置き、ラストスパートのできる選手を養成しました。また小学校のころから走っていたので早熟にならないよう考えて指導しました。結果はすぐに出てしまい、中1の通信陸上の800mで優勝(2人優勝)・全日中標準記録突破、県選手権800m優勝。中2は1500mで県中学記録更・県通信陸上800m・1500mで2冠(全日中標準記録2種目突破)、中3は3000m県中学記録更新と中学時代に県レベルの大会で9回優勝し、全国大会へは7大会出場しました。高校は、9か月間武者修行(?)してから本校で県レベルの大会は3回優勝し、全国女子駅伝にも出場しました。
〖トピック9〗〜異色の選手&エトセトラ〜
(1)『種目をチェンジして、日本一』山口真未(H19-21在学)
・高校時代…棒高跳;県高校記録樹立・国体出場。七種競技;インターハイ2年連続出場。
⇒1回目種目チェンジ⇒2回目種目チェンジ=自転車;令和元年度(2029)茨城国体 自転車競技のチームスプリントで優勝(日本新記録)。個人では、ケイリンで3位。
≪R1(2019)茨城国体の写真≫
※①チームスプリントで優勝(写真左先頭) ②右側が山口真未
(2)『投てき選手、筋トレの成果』;パワーリフティングで全国高校選抜大会(1993)団体優勝!
・全国大会優勝;松浦千恵・森本亜由美
・全国大会入賞;植木美和
・投てきの筋トレの一環でパワーリフティング大会に参加したところ団体全国優勝
(3)『ハードル競技』 ※ハードル競技をアップできなかったのでここで紹介します。
≪全国大会 入賞者≫
〔日本ジュニア選手権〕
第7位 100mH 生井美有(2006)
≪関東高校(北関東) 入賞者≫1大会のみ
第2位(1人) 100mH 生井美有(2005)、第3位(1人) 100mH 生井美有(2006)
第6位(1人) 400mH 鶴田由樹美(2003)
≪県大会 優勝≫
〔県高校総体〕
100mH(3人) ①渡邊和江(1998) ➁生井美有(2005) ③生井美有(2006)
400mH(2人) ①鶴田由樹美(2003) ➁生井美有(2006)
〔県高校新人〕
100mH(2人) ①生井美有(2004) ➁生井美有(2005)、400mH(1人) ①山口 真未(2007)
〔県選手権〕
400mH(1人) ①鶴田由樹美(2003)
(4)『県選手権にて跳躍3種目に入賞し、3種目で関東選手権出場!』
影山聡菜(H23-25在学)
・H24県選手権 走高跳5位、走幅跳5位、三段跳4位
※H25全国高校選抜大会 三段跳出場
(5)『高校在学中、跳躍4種目で関東大会以上の大会出場!』
西尾奈美(H10-12在学)
・H11県高校総体;走高跳3位⇒関東高校
・H12県高校総体;走幅跳4位⇒関東高校
・H12県選手権;棒高跳;3位・三段跳5位⇒関東選手権
〇H12年 国体;棒高跳16位
(6)『在学中、茨城県大会で個人種目にて最多優勝数 12回優勝!』
加藤 花梨(附属中~取手聖徳女子高校)
①中1:県通信陸上800m
https://youtu.be/WR820CRd1Ws
➁中1;県選手権800m
https://youtu.be/SS302o125hU
③中1;県中学校新人800m
④中2;県通信陸上800m
https://youtu.be/CKeZqBuVF5c
⑤中2;県通信陸上1500m
https://youtu.be/3OoDXRNBSTQ
➅中2;県民総体800m
https://youtu.be/to715SsJ3S8
⑦中2;県中学校新人1500m
https://youtu.be/Y819sKqeTSE
⑧中3;県通信陸上1500m
https://youtu.be/w_9TIzpJlQ4
⑨中3;県民総体1500m
https://youtu.be/DYtll2RXLM0
⑩高2;県選手権5000m
https://youtu.be/W_AYKQ0--rg
⑪高2;県高校新人3000m
https://youtu.be/15H9K0w8gZA
⑫高3;県夏季大会(総体の代替え大会)1500m
https://youtu.be/PKCzYUc0hV0
(7)『県大会で3種目以上制覇 8人(13回)』
※4種目優勝が最高数
①渡辺和子H2(高3);県高校総体・3種目優勝;100m・200m・4×100mR (+400m;4位)
➁船津美佐H5(高3);県高校総体・3種目優勝;200m・400m・4×100mR
※一番右;高校1年次の船津美佐
③金子智美H6(高3);県高校総体・3種目優勝;100m・200m・4×100mR (+400m;2位)
👈※前列右;金子智美
④高野千尋H7(高2);県高校新人・3種目優勝;100m・200m・4×400mR(+4×100mR;2位)
〇高野千尋H8(高3);県高校総体・3種目優勝;100m・200m・4×100mR
👈※上記写真の後列右;高野千尋の高校1年次
⑤渡辺和江H9(高2);県高校新人・3種目優勝;走幅跳・4×100mR・4×400mR(+200m;5位・100mH;2位)
〇渡辺和江H10(高3);県高校総体・3種目優勝;100mH・走幅跳・4×100mR(+200m;5位)
➅糸賀千恵;H9(高1);県高校新人(4種目);100m・200m・4×100mR・4×400mR
〇糸賀千恵;H10(高2);県高校総体;100m・200m・4×100mR
〇糸賀千恵;H10(高2);県高校新人(4種目);100m・200m・4×100mR・4×400mR
⑦植村 愛;H12;県高校新人・3種目優勝;100m・200m・4×400mR(+4×100mR;2位)
〇植村 愛;H13;県高校総体・3種目優勝;100m・200m・4×100mR
(8)『取手聖徳女子中学校の活躍』
『全国大会・関東大会出場・県大会入賞者(S61~R2)』
【全国大会 出場】
〔全日本中学校選手権〕
①H27 800m 加藤花梨、②H28
800m・1500m 加藤花梨、③H29 1500m 加藤花梨
〔国民体育大会〕
①H29.10 少年B800m 加藤花梨
〔ジュニアオリンピック〕
①H20 B;走幅跳 根本 南、
②H27 C;800m加藤花梨、③H28 B;1500m加藤花梨、④H29 A;3000m加藤花梨
〔全国女子駅伝〕
①H15.1石塚真与8区;27位、②H29.1加藤花梨(補欠)、③H30.1加藤花梨3区;19位
【関東大会】
〔関東中学校〕
①H10 3年100m 第8位 植村 愛、②H28 共通800m 第7位 加藤花梨
③H29 共通1500m 第8位 加藤花梨。④H20 共通走幅跳 出場 根本 南
〔東日本女子駅伝〕
①H14 石塚真与(補欠)、②H29 加藤花梨(補欠)
【県大会】
〔通信陸上大会〕
1位(5人) ①根本 南(H20;走幅跳)、②加藤花梨(H27;800m)、③加藤花梨
(H28;800m)、④加藤花梨(H28;1500m)、⑤加藤花梨(H29;1500m)
4位(1人) ①植村 愛(H10;100m)
6位(2人) ①石塚真与(H14;1500m)、②安齋彩織(H26;走幅跳)
〔県総体〕
1位(2人) ①加藤花梨(H28;800m)、②加藤花梨(H29;1500m)
2位(1人) ①根本 南(H20;走幅跳)
3位(1人) ①植村 愛(H10;100m)
4位(2人) ①安齋彩織(H26;走幅跳)、②加藤花梨(H27;800m)
5位(2人) ①石塚真与(H14;1500m)、②根本 南(H19;1年走幅跳)
6位(1人) ①井坂泰子(H1;200m)
〔県中学新人〕
1位(3人) ①根本 南(H20;走幅跳)、②加藤花梨(H27;800m)、
③加藤花梨(H28;1500m)
2位(2人) ①石塚真与(H14;1500m)、②安齋彩織(H25;走幅跳)
令和5年6月に取手聖徳女子高校は、女子高校として学校を継続することが決定しました。定年後も常勤教諭として勤務し、陸上競技部を引き続き指導をすることになりますのでよろしくお願いいたします。(令和6年2月7日 小川 健二)
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